なぜかどうしても好きなカンフーができる俳優のアクション映画は、だいたい年一回程度のペースでしか見かけない。でも、そのくらいのペースでいいのかもしれない。自分の体調としてはちょうどいい。

そろそろ動きたい。身体を先行させた顕在的な意識からはずれていくようなこと。ダンスでなくてもいいんだろう。そもそも、世間がダンスと認識しているような踊りをしていたわけでもない。あれは自分にとって、社会からの逃避、妄想、隔離、結果として鍛錬となっていたが同時に枠がなさすぎて身体の限界を超えて壊れていったけどわたしにとっては幼少期のよくない経過に対する療養でありリハビリだった、と、精神科に通院治療をはじめてから理解した。必要にせまられてつっこんでいった世界だった。若くて欲深くあきらめきれない屈折が生んだ力は切実で、それに強いられ続けた脳や内臓は、だいたい同じくらいの時期にあちこち壊れた。死ぬほどのものではないものがぽろぽろとやってきた。手術も2回した。ただの初老といってしまうこともできるだろう。

やむにやまれずやってしまっていること。それがいい。そして、やれていたことであることも大事だ。今は、なにか記しておきたいという微かな欲が芽を出している。5年くらいかけて治療としてやってきて、毎朝というほどもできなかったが書いてきた。書きなぐりだからこそ言葉になったには違いないけど、ダンスレッスンにおけるフロアストレッチのような、身体をただ準備する行為と近いことをやっていたのかなと思う。それを次、どうしていこうか。組み上げるような行為をはじめてもいいような気がしはじめて、半年も経ってしまった。ダンスならクロスフロアでステップの練習、自分の身体のボキャブラリーで振り付けを紡ぐような段階のことができたらいいなと、ずっと、心のすみからそんな考えがこっちを観ているような気がしている。今年はフルタイム就労を継続させることを最も優先し、暮らしを組み直す意識で過ごしながらも、言葉を生む出口を掘っていた5年をこのままなかったことにもしたくなくて、この穴の先はには何かあるのだろうかとできることはないかと探っていた。

フルタイム7時間、他者を不快にしない服に着替える、通勤、自炊、できるなら弁当、猫、洗濯して干す、ごみの分別、ゴミ出し、掃除機、薬を飲む、定期通院を忘れない、猫の運動。わたしには持て余す時間は残らない。暮らしのタスクの多さにうんざりする毎日を、どうやったらうんざりにとりこまれないか、仕方なくなんとかやってきた。どれをやめるのか、選定しながら。壊れた脳が今やこんなに建設的な思考ができるまでになっていて、自己信頼には十分に足りている。じゃあ、脳が最低限生きていくための思考以上のアイデアを生み出せるような時間を捻出してやれる体力があるかといえば、そんなことはできそうもない。

少し調子が上向くと、暮らしのタスクを無意識の能力として飲み込めたなら、もっと今より稼げるスキルをゲットしに行くべきで、まともに社会で自立して生きていくためにはそうすべきだ、さあ、なんかやれ、と何かが圧をかけてくる。そいつに応えようとはしてみた。半端に計画を立ててみたりした。就労先の業務に関連のある、しかし自分の担当業務や雇用レベルでは必要とされない資格試験について調べテキストも入手して学習プランを立ててみたり。でも、実行しない。現状、できていない。今日は12月28日、年末年始休みに入ってしまった。焦る。焦る?やめておけ。病へもどる門なら大きく開かれている。

結局焦り疲れて、暮らしに殺されないように、お金をつかう。なんだかんだ、お金がものをいう。療養も、無理をしないような工夫をこらすことも、思考する時間を与えることも、資金が要る。時間、それはお金だ。

行きつ戻りつ乱高下しながらも実行して実感できたことは、わずかなお金をプールしておくには、自炊。健康には自炊。脳のリハビリにも自炊。料理、ではない。自炊を回すことです。はい、難関です。思考の体力、時間が必要。うまく継続できれば効果はとても高い。しかし、効果が高いことは負荷も高い。当然、体調がやらせてくれない日だって多い。かなり。結果、お金は、いなくなった。ちなみに、料理すること単体は趣味療養としてはとてもいい。はい、これ、かなりお金がかかります。節約にはなりません。

良いほうに考えよう。そのお金は、わたしを休ませる時間と交換されていた。そんな半年だった。業務が合っていたことも相まって、その投資は成果を得たといえる。そのお金でとにかく安定出社だけは死守したこと、嫌われることを気にする余裕なんか無いんだよと少しの怒りを肚に据えただPCだけをみつめ目の前の処理をこなし続けられるコンディションであったこと、あと、運よく、スピードや小器用さを求められなかったことで、いつのまにか“そこに居る人”に成っていた。

自分が居続けられる場を得られるかは、運でしかない。振る舞いは自分の選択だといえるかもしれないが、その振る舞いには限界がある。それが場とマッチするのかしないのか、マッチするまでの時間がもらえるのか、それは運だ。

運によってもたらされた、このだいぶ健やかな脳。この新しくも古傷だらけの脳と、老いてきた身体。ここに乗って、“わたし”は来年、何をしますか。

午後は、トニーレオンが悪役で出演する新作映画を観に行く。運が、とても良い。

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